字新城小字北滝原
伝説遺跡概要
字新城小字北滝川原にある、小高い山を山川毛(やまがーもう)と言っている。字新城は、昔、税金を八万石納めるほどの土地があり、大きい村であったらしい。琉球の王様は、そういった村を7年に一回見てまわったという。その時に、王様を歓迎するために踊って見せたのが、「シーヤーマー」だという。踊った場所がこの山川毛で、円陣が組めるくらいの広場があったという。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
字新城小字北滝原
伝説遺跡概要
字新城小字北滝川原にある、小高い山を山川毛(やまがーもう)と言っている。字新城は、昔、税金を八万石納めるほどの土地があり、大きい村であったらしい。琉球の王様は、そういった村を7年に一回見てまわったという。その時に、王様を歓迎するために踊って見せたのが、「シーヤーマー」だという。踊った場所がこの山川毛で、円陣が組めるくらいの広場があったという。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
伝説遺跡概要
字新城小字北滝川原にある池で現在も形は残しているらしいが、草が生い茂りそこまで行くことができない。深さのある池で、昔は地元の人達が水浴びなどをしていたというが、子どもが溺れた事故があってからは、あまり使われなくなったという。近くには、山井泉(やまがー)という湧水が豊富な場所もあった。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
伝説遺跡概要
字新城小字北滝川原にある池で現在も形は残しているらしいが、草が生い茂りそこまで行くことができない。深さのある池で、昔は地元の人達が水浴びなどをしていたというが、子どもが溺れた事故があってからは、あまり使われなくなったという。近くには、山井泉(やまがー)という湧水が豊富な場所もあった。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
伝説遺跡概要
この御嶽は、北滝川原の屋号座波小所有の原野の側にあって北の方向に面し、粗末な石造りの祠(ほこら)であって火の神一基を安置してあった。神名は「イシラゴマシラゴザレコトリルワカツカサノ御イベ」とも、「イシラゴマシラゴザレトリメシヨワルワカツカサノ御イベ」だとも言われている。また、地元では御神体が美しい女神であったので「美人お嶽」とも、新城グスクが滅びたのを残念に思いこの「お嶽をざんにんのお嶽」とも呼んでいたと伝えられる称する異説もある。この伝説からすれば、このお嶽は元来新城グスク内に在ったお嶽が、新城グスク滅亡後今の地に遷されたものと思われる。また、お通しのお嶽とか、東御願所とも言い、今帰仁や首里拝みのお通しの拝所であったと思われ。昭和10年に字内の拝所を合祀したお宮が建立され、この拝所もに合祀されると崇信する者が少なくなり、国頭東村より移住してきた山原門中が、毎年祭祀を行っている程度である。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
伝説遺跡概要
この御嶽は、北滝川原の屋号座波小所有の原野の側にあって北の方向に面し、粗末な石造りの祠(ほこら)であって火の神一基を安置してあった。神名は「イシラゴマシラゴザレコトリルワカツカサノ御イベ」とも、「イシラゴマシラゴザレトリメシヨワルワカツカサノ御イベ」だとも言われている。また、地元では御神体が美しい女神であったので「美人お嶽」とも、新城グスクが滅びたのを残念に思いこの「お嶽をざんにんのお嶽」とも呼んでいたと伝えられる称する異説もある。この伝説からすれば、このお嶽は元来新城グスク内に在ったお嶽が、新城グスク滅亡後今の地に遷されたものと思われる。また、お通しのお嶽とか、東御願所とも言い、今帰仁や首里拝みのお通しの拝所であったと思われ。昭和10年に字内の拝所を合祀したお宮が建立され、この拝所もに合祀されると崇信する者が少なくなり、国頭東村より移住してきた山原門中が、毎年祭祀を行っている程度である。
案内 新城 仲里美恵子
新城 新垣マツ
伝説遺跡概要
この御嶽は、「琉球国由来記」によれば、神名は「オケ森若司ノ御イベ」で具志頭村字新城の人々から深く崇信されていたとされる。現在この御嶽は、前川部落のお獄として祀られているが、新城の人々から崇信されていない。正徳3年頃(1713)今より248年前頃は、新城のお宮は昭和10年に地内のハチヤノ嶽・オケノハナ嶽・上江洲ヒラ嶽の各イビを合祀したものであった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
この御嶽は、「琉球国由来記」によれば、神名は「オケ森若司ノ御イベ」で具志頭村字新城の人々から深く崇信されていたとされる。現在この御嶽は、前川部落のお獄として祀られているが、新城の人々から崇信されていない。正徳3年頃(1713)今より248年前頃は、新城のお宮は昭和10年に地内のハチヤノ嶽・オケノハナ嶽・上江洲ヒラ嶽の各イビを合祀したものであった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
玉城村の前川を経て具志頭村と玉城村の境を流れる雄樋川の流れは、新城の集落近くの東を流れるので、その流れで手足を洗い、洗濯や水浴もし、牛馬にもここで水を浴びせていた。そこでこの川を手足洗い川と言っていた。しかし、戦後は、川の水が汚れたので、今はあまり使っていない。
話者 新城 女(大正9年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
玉城村の前川を経て具志頭村と玉城村の境を流れる雄樋川の流れは、新城の集落近くの東を流れるので、その流れで手足を洗い、洗濯や水浴もし、牛馬にもここで水を浴びせていた。そこでこの川を手足洗い川と言っていた。しかし、戦後は、川の水が汚れたので、今はあまり使っていない。
話者 新城 女(大正9年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
昔、王の命令で六十歳になった老人は、雄樋川に近い正月原(しょうがつばる)の六十洞窟(がま)に捨てられたという。その洞窟から少し降りたところに水があるので、捨てられた老人は、その水を飲んで生きていたが、正月には、老人を捨てた家族がその洞窟に行って、御馳走を上げたりしたので、そこを正月原(しょうがつばる)というようになった。
話者 新城 男(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
昔、王の命令で六十歳になった老人は、雄樋川に近い正月原(しょうがつばる)の六十洞窟(がま)に捨てられたという。その洞窟から少し降りたところに水があるので、捨てられた老人は、その水を飲んで生きていたが、正月には、老人を捨てた家族がその洞窟に行って、御馳走を上げたりしたので、そこを正月原(しょうがつばる)というようになった。
話者 新城 男(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城から玉城村前川に行く道をマジムン道という。この道にはほとんど人家はなく、途中には石を積んで造った六歳以下で死んだ子供を葬る墓があった。ある人が、その道を夜になって通るとガンガラーの近くで青年達が集まって相撲をとっていた。その人もその青年達と相撲をとってみると、とても敵(かな)わなかった。相手になった青年がどこの者とも分からないので、不気味に思って傍にある木に上ってコッコローウーと鶏の鳴き声を真似ると、その青年達は、「もう鶏が鳴いたから帰ろう。」と言って、あわてて逃げて行ったので、その青年達が幽霊だったと分かった。その道を夜になって通った人が犬や猫、アヒルの姿をしたマジムンに股をくぐられて死ぬ人がいたので、そこをマジムン道というようになった。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城から玉城村前川に行く道をマジムン道という。この道にはほとんど人家はなく、途中には石を積んで造った六歳以下で死んだ子供を葬る墓があった。ある人が、その道を夜になって通るとガンガラーの近くで青年達が集まって相撲をとっていた。その人もその青年達と相撲をとってみると、とても敵(かな)わなかった。相手になった青年がどこの者とも分からないので、不気味に思って傍にある木に上ってコッコローウーと鶏の鳴き声を真似ると、その青年達は、「もう鶏が鳴いたから帰ろう。」と言って、あわてて逃げて行ったので、その青年達が幽霊だったと分かった。その道を夜になって通った人が犬や猫、アヒルの姿をしたマジムンに股をくぐられて死ぬ人がいたので、そこをマジムン道というようになった。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
現在玉泉洞になっているあたりを金森山(かにむいやま)と言う山だったが、今は、畑になっているところもある。地元の人達は、「この山は金になる山だよ。」と推測して金森山と呼んでいたという。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
現在玉泉洞になっているあたりを金森山(かにむいやま)と言う山だったが、今は、畑になっているところもある。地元の人達は、「この山は金になる山だよ。」と推測して金森山と呼んでいたという。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城から雄樋川を越えたところは、玉城村の玉泉洞である。そこに米道山(くみどーやま)という山がある。その山に入って鬼になった人がいたという。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城から雄樋川を越えたところは、玉城村の玉泉洞である。そこに米道山(くみどーやま)という山がある。その山に入って鬼になった人がいたという。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
今は戦争で破壊されてなくなったが、新城から玉城村前川に行く途中にガンガラーと呼ばれる上が自然橋になっている深い穴がある。そこに石を投げ入れると、石があちこちに引っ掛かってガランガランと音がするので、そこをガンガラーと言った。その底は風葬墓になっており、人々には恐ろしがられた。現在、ガンガラー跡は玉泉洞の敷地内になっており、県道17号線で分断されている。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
今は戦争で破壊されてなくなったが、新城から玉城村前川に行く途中にガンガラーと呼ばれる上が自然橋になっている深い穴がある。そこに石を投げ入れると、石があちこちに引っ掛かってガランガランと音がするので、そこをガンガラーと言った。その底は風葬墓になっており、人々には恐ろしがられた。現在、ガンガラー跡は玉泉洞の敷地内になっており、県道17号線で分断されている。
話者 新城 女(大正14年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の石獅子は、鍛冶屋仲里の近くに北向きに獅子、北滝川(じょう原毛)に東向きの獅子、南滝川(新城神宮の近く)に南向きの獅子、さらに西方にも獅子が置かれ、すわなち字の四方にそれぞれ1体ずつ計4つの石獅子が置かれていたという。1体は沖縄戦で破損紛失したが、残された3体とも琉球石灰岩で彫刻された獅子で、獅子と称されているが、ユーモラスな顔をしたという。これらの獅子は、村に入る悪霊や病魔をしりぞけるためだったという。また、石が剥き出しになっている岩山は、火を噴くいう信仰があり、その火を噴く代表的な岩山は、新城に隣接する東風平町富盛の八重瀬であったのでその火霊(ひいだま)を追い払うためにも置かれていたという。
話者 新城 女(大正7年生)他数名案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の石獅子は、鍛冶屋仲里の近くに北向きに獅子、北滝川(じょう原毛)に東向きの獅子、南滝川(新城神宮の近く)に南向きの獅子、さらに西方にも獅子が置かれ、すわなち字の四方にそれぞれ1体ずつ計4つの石獅子が置かれていたという。1体は沖縄戦で破損紛失したが、残された3体とも琉球石灰岩で彫刻された獅子で、獅子と称されているが、ユーモラスな顔をしたという。これらの獅子は、村に入る悪霊や病魔をしりぞけるためだったという。また、石が剥き出しになっている岩山は、火を噴くいう信仰があり、その火を噴く代表的な岩山は、新城に隣接する東風平町富盛の八重瀬であったのでその火霊(ひいだま)を追い払うためにも置かれていたという。
話者 新城 女(大正7年生)他数名案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
昔、新城の馬場は、長さが四百メートルほどもあり、その両側には松の木があった。その馬場では7月17日には馬ハラシーと言って、競馬が行われた。また、綱引きやエイサーも行われ、新城の代表的な芸能である椎の実拾いの所作をするシーヤーマーと呼ばれる踊りを披露することもあった。
話者 新城 女(大正9年生)
女(大正10年生)
伝説遺跡概要
昔、新城の馬場は、長さが四百メートルほどもあり、その両側には松の木があった。その馬場では7月17日には馬ハラシーと言って、競馬が行われた。また、綱引きやエイサーも行われ、新城の代表的な芸能である椎の実拾いの所作をするシーヤーマーと呼ばれる踊りを披露することもあった。
話者 新城 女(大正9年生)
女(大正10年生)
伝説遺跡概要
集落東南の屋号東恩納家の前の道路下にある泉が真嘉戸井泉である。この泉については、王府が編纂した『球陽』外巻の『遺老説伝』に次のような話が掲載されている。昔、新城の村では5月と6月の稲の祭りには、3日前から、村人はこの井の水を汲んで来て神酒を造り、神に供えていた。ある年、真嘉戸という娘が主人の言いつけで、6月の稲の祭りの神酒を造るために、何度もこの真嘉戸井泉から汲んだ水を運んでいたが、あまり疲れたので井泉の傍に甕を置いて涙を流していると、神が現れて、「新城の稲の祭りは5月に一度やれば6月はやらなくてもよい。」と教えた。それから、新城の稲の祭りは5月だけになったという。当時の新城の村は、おそらく真嘉戸井泉からは離れてしかも登り坂がきつい上の毛にあったことから、こうした話が生まれたと思われる。
話者 新城 女(大正7年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
集落東南の屋号東恩納家の前の道路下にある泉が真嘉戸井泉である。この泉については、王府が編纂した『球陽』外巻の『遺老説伝』に次のような話が掲載されている。昔、新城の村では5月と6月の稲の祭りには、3日前から、村人はこの井の水を汲んで来て神酒を造り、神に供えていた。ある年、真嘉戸という娘が主人の言いつけで、6月の稲の祭りの神酒を造るために、何度もこの真嘉戸井泉から汲んだ水を運んでいたが、あまり疲れたので井泉の傍に甕を置いて涙を流していると、神が現れて、「新城の稲の祭りは5月に一度やれば6月はやらなくてもよい。」と教えた。それから、新城の稲の祭りは5月だけになったという。当時の新城の村は、おそらく真嘉戸井泉からは離れてしかも登り坂がきつい上の毛にあったことから、こうした話が生まれたと思われる。
話者 新城 女(大正7年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城では、村の共同墓を衆人墓(しゅにんばか)と言っていた。後で門中や友達同士で墓を造るようになった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城では、村の共同墓を衆人墓(しゅにんばか)と言っていた。後で門中や友達同士で墓を造るようになった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新里壕には昔の按司墓(あじしー)で按司のものと思われる骨があった。この壕は戦争のとき避難壕になり、新城の人だけではなく、他の字の人もこの壕に避難した。避難した人達は、この壕の中には飲み水も出ておったから、中でご飯を炊いて食べ、水も流れていたから洗濯もできた。食べ物がなくなると、朝早く外に出て芋を掘ってきて食べたりしていた。
話者 新城 屋富祖シズ(大正9年生)
伝説遺跡概要
新里壕には昔の按司墓(あじしー)で按司のものと思われる骨があった。この壕は戦争のとき避難壕になり、新城の人だけではなく、他の字の人もこの壕に避難した。避難した人達は、この壕の中には飲み水も出ておったから、中でご飯を炊いて食べ、水も流れていたから洗濯もできた。食べ物がなくなると、朝早く外に出て芋を掘ってきて食べたりしていた。
話者 新城 屋富祖シズ(大正9年生)
伝説遺跡概要
下之新井戸(しちゃぬみーがー)は、昭和に入った以後の戦前新しく掘られた井戸で、この井戸も飲み水には使用せずに、洗濯や野菜を洗うなどに使った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
下之新井戸(しちゃぬみーがー)は、昭和に入った以後の戦前新しく掘られた井戸で、この井戸も飲み水には使用せずに、洗濯や野菜を洗うなどに使った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
火の吹く岩山を防ぐ風水として岩山と集落の間に池を造る場合が多い。新城でも石獅子の下に池を造り、滝井泉(たきがー)を越した先にもヘージョー毛(もー)にもクムイが造られていた。そこには、死んだ馬の死体を全部そこに埋めて馬の墓場にしていたという。
話者 新城 男(大正12年生)
案内 大頓 屋宜宣孝
伝説遺跡概要
火の吹く岩山を防ぐ風水として岩山と集落の間に池を造る場合が多い。新城でも石獅子の下に池を造り、滝井泉(たきがー)を越した先にもヘージョー毛(もー)にもクムイが造られていた。そこには、死んだ馬の死体を全部そこに埋めて馬の墓場にしていたという。
話者 新城 男(大正12年生)
案内 大頓 屋宜宣孝
伝説遺跡概要
上之新井戸(いーぬみーがー)は、新しく掘られた井戸なのでこの名がある。大きな井戸だったが、飲み水にはせずに、洗濯や野菜を洗うなどに使った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
上之新井戸(いーぬみーがー)は、新しく掘られた井戸なのでこの名がある。大きな井戸だったが、飲み水にはせずに、洗濯や野菜を洗うなどに使った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
上之毛(いーぬもー)に村があったころ、真嘉戸井泉は、水量は豊富だが集落から遠いので、役人達が協議して新しく造ったのが上之毛(いーぬもー)の下にある恩之井戸(うーぬかー)だった。そのあたりには家がなくみんな池になっていた。この井戸ができると、若水などは真嘉戸井泉の水を汲むが、日常の水はこの恩之井戸(うーぬかー)の水を使うようになった。この水で豆腐を作るときに使う家もあった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
上之毛(いーぬもー)に村があったころ、真嘉戸井泉は、水量は豊富だが集落から遠いので、役人達が協議して新しく造ったのが上之毛(いーぬもー)の下にある恩之井戸(うーぬかー)だった。そのあたりには家がなくみんな池になっていた。この井戸ができると、若水などは真嘉戸井泉の水を汲むが、日常の水はこの恩之井戸(うーぬかー)の水を使うようになった。この水で豆腐を作るときに使う家もあった。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の主要な門中を七門中という。その中で最も古い門中は、外間門中(ふかまむんちゅう)であるという。その先祖は、新城親方という伝承もある。もし、新城親方であれば、尚清王、尚元王代の三司官であり、具志頭間切新城の村の地頭となった新城安基(あらぐすくあんき)と思われる。この外間之殿は、その外間門中(ふかまむんちゅう)の祭祀の拝所と思われる。『琉球国由来記』によれば、「外間之殿(新城村) 祭主 新城巫 今新城之住、座嘉比大屋子家設席也。稲穂祭之時、穂、シロマシ二器、神酒一(百姓)花米九合五水六合(家主)供之。同巫祭祀也。」とある。なお、新城の話者は先祖の出身を奄美大島と伝えている。今この拝所は、その跡が残っているだけである。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の主要な門中を七門中という。その中で最も古い門中は、外間門中(ふかまむんちゅう)であるという。その先祖は、新城親方という伝承もある。もし、新城親方であれば、尚清王、尚元王代の三司官であり、具志頭間切新城の村の地頭となった新城安基(あらぐすくあんき)と思われる。この外間之殿は、その外間門中(ふかまむんちゅう)の祭祀の拝所と思われる。『琉球国由来記』によれば、「外間之殿(新城村) 祭主 新城巫 今新城之住、座嘉比大屋子家設席也。稲穂祭之時、穂、シロマシ二器、神酒一(百姓)花米九合五水六合(家主)供之。同巫祭祀也。」とある。なお、新城の話者は先祖の出身を奄美大島と伝えている。今この拝所は、その跡が残っているだけである。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城は新城グスクの北方で、今は字後原(こしはら)の区域になっている新垣(あらかち)マージから始まったという。そこが新城の一番最初の部落だった。しかし、そこは、土が少ない上に石が多く排水も悪かったので、日照りでも長雨でも作物ができなかったので、字の北西で後原(こしはら)に近い窪地のユリー原(ばる)に移った。そこは、作物もよくできるからいい所だなと思って喜んで生活はしていたが、長雨が降ると、そこは窪地だから水が流れてきて水が溜まって暮らせなくなり、今の新城のお宮のある上之毛(いーぬもー)に行って村建てをした。それから人口も増えたので、次第に上之毛(いーぬもー)の周辺の下にも家が造られるようになった。その上之毛の御嶽にはグスク時代の遺物包含層が見られるので、その上之毛(いーぬもー)島建ては、新城グスクの時代であったと思われる。
話者 新城 當間秀昌(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城は新城グスクの北方で、今は字後原(こしはら)の区域になっている新垣(あらかち)マージから始まったという。そこが新城の一番最初の部落だった。しかし、そこは、土が少ない上に石が多く排水も悪かったので、日照りでも長雨でも作物ができなかったので、字の北西で後原(こしはら)に近い窪地のユリー原(ばる)に移った。そこは、作物もよくできるからいい所だなと思って喜んで生活はしていたが、長雨が降ると、そこは窪地だから水が流れてきて水が溜まって暮らせなくなり、今の新城のお宮のある上之毛(いーぬもー)に行って村建てをした。それから人口も増えたので、次第に上之毛(いーぬもー)の周辺の下にも家が造られるようになった。その上之毛の御嶽にはグスク時代の遺物包含層が見られるので、その上之毛(いーぬもー)島建ては、新城グスクの時代であったと思われる。
話者 新城 當間秀昌(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城グスク遺跡の中にある新城のお宮は、昭和10年に集落の各地にあった『琉球国由来記』に見えるハチヤノ嶽、オケノハナ嶽、上江洲ヒラ嶽を合祀したものである。これらの御嶽はすべて新城巫女が祭祀を行っていたは所であったが、現在は新城には巫女がいない。なお、ハチヤノ嶽は、新城グスク内の拝所の神体が美しい女神であったので「美人お嶽」と称するとも言い、新城グスクが亡びたのをハチヤノ嶽の神が残念に思ったことから「ざんにんのお嶽」とも呼ばれている。このお宮は沖縄戦で破壊されたが、昭和31年にコンクリート造りの神社形式の拝所に再建された。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城グスク遺跡の中にある新城のお宮は、昭和10年に集落の各地にあった『琉球国由来記』に見えるハチヤノ嶽、オケノハナ嶽、上江洲ヒラ嶽を合祀したものである。これらの御嶽はすべて新城巫女が祭祀を行っていたは所であったが、現在は新城には巫女がいない。なお、ハチヤノ嶽は、新城グスク内の拝所の神体が美しい女神であったので「美人お嶽」と称するとも言い、新城グスクが亡びたのをハチヤノ嶽の神が残念に思ったことから「ざんにんのお嶽」とも呼ばれている。このお宮は沖縄戦で破壊されたが、昭和31年にコンクリート造りの神社形式の拝所に再建された。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
字新城部落の北西寄り標高約90メートルの丘陵上に築かれた1万6千余平方メートルの広さがある山城の連郭式の古城跡で、出土遺物から14世紀初頭の英祖王統の時代に築かれたと推定されているが、この城を築城した城主等については、文献には一切記載されていない。この城址の西北は絶壁となっており、城跡内の一番高い所には本丸跡と見られる所があり、その下の方に二の丸跡と思われる平地が続いている。野づら積みの城壁がところどころ残っているのは西北側と東南側で、城門は新城の部落を前にひかえた東寄りの方にあったと思われる。この城は水を恩の井泉に求めていたという伝承や最初の按司は、奄美から来た人物が雄樋川を逆上ってきて新城に入ったとする伝承、3回落城して3回建て直してたとも伝え、さらには、この城は、築城中に中山から取壊しを命じられたので完成しなかったなどの伝承がある。現在新城グスク跡は、最も上部に近いところの字新城のお宮の周辺を除いて、すべて住宅地になっている。
話者 新城 男(大正8年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
字新城部落の北西寄り標高約90メートルの丘陵上に築かれた1万6千余平方メートルの広さがある山城の連郭式の古城跡で、出土遺物から14世紀初頭の英祖王統の時代に築かれたと推定されているが、この城を築城した城主等については、文献には一切記載されていない。この城址の西北は絶壁となっており、城跡内の一番高い所には本丸跡と見られる所があり、その下の方に二の丸跡と思われる平地が続いている。野づら積みの城壁がところどころ残っているのは西北側と東南側で、城門は新城の部落を前にひかえた東寄りの方にあったと思われる。この城は水を恩の井泉に求めていたという伝承や最初の按司は、奄美から来た人物が雄樋川を逆上ってきて新城に入ったとする伝承、3回落城して3回建て直してたとも伝え、さらには、この城は、築城中に中山から取壊しを命じられたので完成しなかったなどの伝承がある。現在新城グスク跡は、最も上部に近いところの字新城のお宮の周辺を除いて、すべて住宅地になっている。
話者 新城 男(大正8年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
今、島原門中の家が建っている山に昔ある人が走って行って、「ここまでは全部私のものだ。」言って手を振ると、後ろからついて行った下男が、崖を登って行って、「エータイ、んまー崖(はんた)やいびんどー。」と言ったので、その崖をエータイヌハンタというようになったという。後原(こしばる)では、入植してきた人が自分の占有しようとする土地に争って旗を立てる旗立勝負(はたたてぃすーぶ)をしたという話が伝わっているので、そうした土地占有争いのときの話と思われる。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
今、島原門中の家が建っている山に昔ある人が走って行って、「ここまでは全部私のものだ。」言って手を振ると、後ろからついて行った下男が、崖を登って行って、「エータイ、んまー崖(はんた)やいびんどー。」と言ったので、その崖をエータイヌハンタというようになったという。後原(こしばる)では、入植してきた人が自分の占有しようとする土地に争って旗を立てる旗立勝負(はたたてぃすーぶ)をしたという話が伝わっているので、そうした土地占有争いのときの話と思われる。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
雨乞いの御嶽は新城グスクの北西の崖から降りた中腹にある。 ここでは戦前までは日照りが続くと、巫女(のろ)が先頭になり神人(かみんちゅ)を引き連れて赴き、雨乞いを行っていた。
話者 新城 男(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
雨乞いの御嶽は新城グスクの北西の崖から降りた中腹にある。 ここでは戦前までは日照りが続くと、巫女(のろ)が先頭になり神人(かみんちゅ)を引き連れて赴き、雨乞いを行っていた。
話者 新城 男(大正8年生)
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
滝井戸は、南滝井泉(みなみたきがー)と北滝井泉(きたたきがー)二つがあり、そのうちの一つは、新城のお宮の後ろにある。この井泉(かー)は王様が流れている水を見つけて、お宮に供えたと伝えるが、その王が誰なのかは不明である。前は水量が多かったが、今は道路工事で少なくなっているという。この井泉(かー)は、祭りなどのときに拝まれている。
話者 新城 女(大正9年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
滝井戸は、南滝井泉(みなみたきがー)と北滝井泉(きたたきがー)二つがあり、そのうちの一つは、新城のお宮の後ろにある。この井泉(かー)は王様が流れている水を見つけて、お宮に供えたと伝えるが、その王が誰なのかは不明である。前は水量が多かったが、今は道路工事で少なくなっているという。この井泉(かー)は、祭りなどのときに拝まれている。
話者 新城 女(大正9年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
上之井戸で洗濯した物を肩いっぱい載せたり、水がこぼれないように桶に木の葉を二、三枚浮かべたりした桶を担いで集落に登る道を上江洲坂(いーしびら)と言った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
上之井戸で洗濯した物を肩いっぱい載せたり、水がこぼれないように桶に木の葉を二、三枚浮かべたりした桶を担いで集落に登る道を上江洲坂(いーしびら)と言った。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の住民が日常の飲み水としても利用していた上之井泉(いーぬかー)は岩下にあって半円形の泉で水量が多かった。しかし、そこは山の下だったので、大きな桶に水を入れて頭に乗せて運ぶ人もあった。新年には子供達はお年玉がもらえるので、朝早く暗いうちに起きて山道歩き若水としてもこの井泉(かー)の水を汲んで火ぬ神(かん)に供えた。また、産水(うぶみず)にもこの井泉(かー)の水を使った。汚れた着物を肩に担いで行って洗濯をしたり、野菜を洗いにも行った。新城だけでなく後原から井泉(かー)の下にあるクムイに馬を連れてきて水を浴びせる人もあり、東風平町の富盛から来て利用する人もいた。
この上之井泉(いーぬかー)のある所は、夜になると怖いところだった。あるとき、蕎麦屋の15歳くらいの若い奥さんがご主人の時計を賭けて、二人の男と夜上之井泉(いーぬかー)に水を汲みに行く賭けをした。その奥さんは白い着物を持って行って、井泉(かー)の近くの木の枝に掛けてきた。後で行った二人の男は井泉(かー)まで行ったがその白い着物を見て、幽霊が出ていると思って水を汲めずに戻ってきたので、その若い奥さんが賭けに勝ったという。
話者 新城 女(大正9年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城の住民が日常の飲み水としても利用していた上之井泉(いーぬかー)は岩下にあって半円形の泉で水量が多かった。しかし、そこは山の下だったので、大きな桶に水を入れて頭に乗せて運ぶ人もあった。新年には子供達はお年玉がもらえるので、朝早く暗いうちに起きて山道歩き若水としてもこの井泉(かー)の水を汲んで火ぬ神(かん)に供えた。また、産水(うぶみず)にもこの井泉(かー)の水を使った。汚れた着物を肩に担いで行って洗濯をしたり、野菜を洗いにも行った。新城だけでなく後原から井泉(かー)の下にあるクムイに馬を連れてきて水を浴びせる人もあり、東風平町の富盛から来て利用する人もいた。
この上之井泉(いーぬかー)のある所は、夜になると怖いところだった。あるとき、蕎麦屋の15歳くらいの若い奥さんがご主人の時計を賭けて、二人の男と夜上之井泉(いーぬかー)に水を汲みに行く賭けをした。その奥さんは白い着物を持って行って、井泉(かー)の近くの木の枝に掛けてきた。後で行った二人の男は井泉(かー)まで行ったがその白い着物を見て、幽霊が出ていると思って水を汲めずに戻ってきたので、その若い奥さんが賭けに勝ったという。
話者 新城 女(大正9年生)他数名
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
字新城北滝川原の屋号仲新門の畑中の一帯は新城の根屋の仲村渠やその一門が崇信している火之神御嶽(ひぬかんうたき)があることから俗に火之神屋敷(ひぬかんやしき)という。このお獄は主に昔、マッチのなかった時代ではここで硫黄を燃やし、火種を村人に分け与えていた。その火の恩を謝するために設けられたお獄であると伝えている。なお、原地区では明治41年行政区として新城から分立した際に、新城からこの火之神御嶽(ひぬかんうたき)を分祀して守護神とし、正月の初御願を行っている。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
字新城北滝川原の屋号仲新門の畑中の一帯は新城の根屋の仲村渠やその一門が崇信している火之神御嶽(ひぬかんうたき)があることから俗に火之神屋敷(ひぬかんやしき)という。このお獄は主に昔、マッチのなかった時代ではここで硫黄を燃やし、火種を村人に分け与えていた。その火の恩を謝するために設けられたお獄であると伝えている。なお、原地区では明治41年行政区として新城から分立した際に、新城からこの火之神御嶽(ひぬかんうたき)を分祀して守護神とし、正月の初御願を行っている。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城グスクの東北側の近くの丘陵上に新城グスクの出城の山グスクがあり、この城は、東北の玉城間切の台地に存在する玉城城や糸数グスクの城主からの攻撃に対しての前衛拠点と同時に見張所であったと伝えられている。現在は、山グスク跡は住宅地になっている。
案内 新城 仲里美恵子
伝説遺跡概要
新城グスクの東北側の近くの丘陵上に新城グスクの出城の山グスクがあり、この城は、東北の玉城間切の台地に存在する玉城城や糸数グスクの城主からの攻撃に対しての前衛拠点と同時に見張所であったと伝えられている。現在は、山グスク跡は住宅地になっている。
案内 新城 仲里美恵子