1 位置・地質
字新城は八重瀬町の南東部に位置し、東側に雄樋川、南側に字具志頭・字大頓、西側に字富盛、北側は字東風平に面しています。
地形は、集落北側の小高い丘の頂上にお宮があり、丘の南側の斜面に集落が形成されています。
地質は、島尻層群(クチャ)が分布し、その上に琉球層群(石灰岩)、さらに上を島尻マージ(赤土)が覆っています。
また、ヌヌマチガマ近くの白土原(字具志頭)は、南部ではめずらしい酸性土壌(凝灰岩層)となっており、かつてこの一帯には酸性土壌で育つシイの山があったと言われ、「新城のシーヤーマー」と呼ばれるシイの実を拾う所作を踊った伝統芸能が伝わっています。
2 人口
戦前の新城の世帯数・人口は、明治13(1880)年に218戸、1051人(「沖縄県統計概表」「沖縄県史二〇」)。
大正8(1919)年6月には、296戸、1541人。
令和2(2020)年9月末現在、485戸1313人となっています。
3 村の成り立ち
新城で一番古い時代の遺跡は約3500年前の遺跡で、集落の東を流れる雄樋川の周辺から見つかっています。
900年前頃になると、農耕の広まりともに人々の生活の場が海岸や川沿いから農耕に適した内陸部に移り、各地には按司と呼ばれる有力者が現れました。
伝承では、新城集落の発祥は、字後原小字ザン原にある新垣村小付近といわれています。
その地はあまり耕作に適した土地ではなかったためユリー原へ移り住みました。そこは耕作に適した土地でしたが、大雨で全て水に浸かってしまったため、上之毛(お宮付近)へ移り住み徐々に上から下に発展していきたということです。
伝承を裏づけるように、小字ユリー原やお宮東側から遺跡が見つかっています。800年前頃には按司によって各地にグスクが築かれていきます。
新城にも集落北西にグスク(お宮・小字北滝川原)があり、石垣は残っていませんが土器や磁器などが見つかっています(グスクの場所については諸説あり)。
4 琉球王国以降
「新城」という地名がはじめて史料にみるのは、『琉球国高究帳』(1635~1647)『絵図郷村帳』(1649)で、「東風平間切新城村」と記されています。
その後17世紀後半、間切境界の見直しが行われ新城村は具志頭間切に移管されました。
5 屋取(やーどぅい)
琉球王国時代、首里では士族の増加により、仕事につけない者が増加しました。
そのため、彼らは仕事を求めて農村に移住し、地元の人々の手が入っていない
土地で農業をはじめ、集落を形成しました。これを屋取(やーどぅい)と呼びます。
字新城の屋取は、新城お宮の北側、小字シクト原に1831年頃から士族が寄留し後原屋取を形成し、1985(昭和60)年に独立し字後原となりました。
6 拝所
『琉球国由来記』(1713)によると、新城村には3つの首里王府公認の御嶽
(「ハチヤノ嶽」、「オケノハナ嶽」、「上江洲ヒラ嶽」)と
13の殿(「新城巫火神」「謝名之殿」「山城之殿」「城間グワノ殿」
「蔵庫裡之殿」「仲村渠之殿」
「ジュマノ殿」「外間之殿」
「新城之殿」「仲之殿」「セル川之殿」「安里之殿」「仲外間之殿」)
があり新城ノロの崇所でした。
現在、新城にノロはおらず、3つの御嶽も昭和11(1936)年に建てられた
新城神宮(お宮)に合祀されています。
<参考文献>『具志頭村の遺跡』具志頭村教育委員会 1986 年 3 月 /『琉球国絵図史料集』第2集 沖縄県教育委員会 1993年 3 月 /『具志頭村立歴史民俗資料館年報』具志頭村教育委員会 2003 年 3 月 /『具志頭村史』第 5 巻(村落編2)具志頭村 2005 年 3 月